社務所のフロントは絵馬、古文書、古銭、刀など陳列したギャラリーになっています。
市指定文化財として保管されている社宝もあります。建築物の創建または修理に際して、その事実を木札などに記して棟や梁に打ち付けた記録です。 年月日、建築主、工匠名などが記されています。
拝殿の前面軒下に吊るし、参拝者の前に下がっている綱を打ち鳴らして参拝に来意を告げるための鳴具です。
「この鰐口は江戸時代に土中より堀り起こされたものと言われています。鰐口の銘文から享徳五年、康正二年に聖秀尊(ひじりしゅうそん)によって奉納されたものであることがわかります。
また、銘文から、武州寄(崎)西群鬼窪八幡宮 鰐口 享徳五年子丙八月一五日聖秀尊から若宮八幡宮を勧進した屋敷神といわれていることがわかります」(ふるさと白岡より)
建白岡村で最も在地性の強かった領主は寛永10年(1633年)から明治維新まで知行した川副氏である。
川副氏は宇多源氏佐々木庶流で、二代目正俊が豊臣秀吉・秀忠に仕え、その子重次が大阪城没落後に徳川秀忠に仕官して旗本となった。三代目重勝が大番に列し武蔵国埼玉郡内で350石を知行し、白岡・下大崎村の殿様となった。(ふるさと白岡より)
拝殿前に設置されている石灯籠は重勝の子「金右衛門重頼」が寄進したものである。その銘文に「奉寄進石灯籠両基 武州埼玉郡白岡八幡宮宝前寛文十二年壬子歳正月吉日 川副氏重頼」 と刻まれている。
傘型の面が4区画に区切られており、それぞれの面に銘文が縦所で刻まれている。
神功皇后と武内宿禰の三韓征伐
文政11年(1828年)
江戸時代から明治時代にかけて安全祈願や大願成就の絵馬が盛んに奉納されました。当神社氏子の有志によって西国巡礼記念の武者絵の大絵馬が奉納されています。
説話を根拠として描いた絵です。高麗、百済、を平定し、さらに神功后宮が新羅を支配するために、補佐役の武内宿禰を従いて朝鮮半島に渡った。その時、神功皇后は第15代天皇(270~310年)応神天皇を身ごもっており、帰還後に出産されたと言い伝えられている。その場面をイメージした絵馬です。
神功皇后と応神天皇を抱いた武内宿禰命
韓信の股くぐり
天保5年11月(1834年)
紀元前196年、中国秦代末期から前韓初期にかけての名将韓信。漢楚の戦いに劉邦のもとで数々の勝利をおさめ、劉邦の覇権を決定づけた。 韓信は故郷の淮陰(江蘇省)にいたころ、体は大きいが臆病者といわれていた。
ある日、韓信は若者に「お前は体は大きいいが、臆病だからいつも長剣をさげているのだろう。違うならその剣で俺を刺してみろ。刺せなければ俺の股をくぐれ。」とおどされた。その時、韓信は俺の志は高く、このような小事にかかわってはいられないと思い、おとなしく恥をしのいで股をくぐったという有名な話の場面。
村の若者に脅されて股をくぐる韓信
木曾義仲と巴御前
寛永5年(1852)10月
義仲は木曾谷周辺を平定し、さらに上野国まで勢力を広げた。 1183年、平家打倒の行動をおこし、北陸道を進み平家軍を討伐、軍勢が都に入ってきたので平家軍は西国に落ち延びた。
その頃、都は食糧事情が極端に悪く、そこに義仲の大軍が入ってきたので食糧事情は最悪の状態であった。その上、義仲の軍勢は粗暴な者が多く、次第に評判が悪くなってきた。 そんな折、後白河法皇は頼朝に義仲の討伐を要請した。その時、指揮をとった範朝と義経によって滅ぼされました。
木曾義仲と松の木を抜き馬上で振り回す巴御前